菅野家住宅
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山町筋のご紹介
山町筋の地図
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重要伝統的建造物群保存地区
■山町筋の景観の主役たち
 重要伝統的建造物群保存地区に選定されているのは、山町十か町(御馬出町、通町、守山町、木舟町、小馬出町、一番町、二番町、三番町、源平町及び坂下町)のうち、主に御馬出町、守山町、木舟町、小馬出町です。
 保存地区内には、土蔵造りや真壁造りの町家、前面を洋風に仕上げた町家、レンガ造りの洋風建築の銀行など、明治中期から、大正、昭和初期に建築された伝統的な建造物が残されています。なかでも、土蔵造りの町家は、山町筋の歴史的な景観をかたちづくる主役です。

■防火に主眼を置いた都市計画
 土蔵造りの町家が造られたのは、市街地の約6割を焼き尽くした明治33年(1900)6月27日の高岡の大火の後のことです。 大火の前年に施工された「建物制限規則(富山県令第51号)」には、繁華街での建物の新築の際は防火構造のものとすることが義務づけられていたため、山町筋の復興にあたって当時の防火建築物である土蔵造りが建てられました。 土蔵造りの建造物は、防火に主眼を置いた明治中期の都市計画の記念碑といえます。

■意匠的に優れた建造物群
 高岡市山町筋伝統的建造物群保存地区は、江戸期の初めに成立した城下町の骨格を踏襲しながら、明治33年(1900)の大火後に当時の都市防災計画にしたがって再興された町で、重厚かつ繊細な意匠をもつ土蔵造りの町家を中心に、洋風建築等の伝統的建造物が建ち並び、「伝統的建造物群が全体として意匠的に優秀なもの」と評価され平成12年12月4日に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
木舟町の町並み
木舟町の町並み
小馬出町の町並み
小馬出町の町並み
大正初期の山町筋
大正初期の山町筋
高岡商人の町
■利長の隠居城と城下町
 高岡の町が開かれたのは、慶長14年(1609)加賀藩第二代藩主の前田利長が高岡に隠居城と城下町を建造したときのことです。 利長は、現在の市街地中心部の南北に延びる小高い丘の上に城と武家屋敷を置き、その西側段丘の下部を約75メートル四方の碁盤の目のように町割し、近隣の城下町から町人を招いて商人町を造りました。 この商人町が山町の始まりです。

■城下町から商工業のまちへ
 利長が高岡で亡くなり(1614)、その翌年の元和元年に発せられた「一国一城令」によって高岡城は廃城となり武士団は金沢へ引き上げてしまいますが、第三代藩主利常は高岡町人の他所転出を禁じ、町人の自治組織である「町年寄」を発足させるなど、高岡を城下町から商工業のまちへと生まれ変わらせる政策を進めました。 明暦3年(1657)には、魚問屋と塩問屋が創設され、高岡城跡には藩主に納められる御詰米と御詰塩のための御蔵が置かれました。 利常の没後もこの政策は受け継がれて、寛文年間(1661〜1672)には、この御蔵が吉久、立野や戸出などにも置かれるようになり、また給人米(家臣らの給料となる米)を納める多くの蔵宿や批屋(へぎや)があって米場が形成されました。 このころ、締綿(精製綿)市場が開かれ、さらに文政7年(1824)には高岡は加賀・能登・越中の綿の販売独占権を与えられたため、綿を取引する商人が高岡に集中し、高岡の経済の発展に大きく貢献しました。 明治期に入って自由な商業活動ができるようになると、高岡米商会所、綿取引を行う「寛文社」(寛文社の名は締綿市場が寛文年間に開かれたことから命名された)肥料を扱う「豊饒社」などが開業し、高岡の経済はますます発展しました。
 このように高岡は、近世から近代を通して米や綿などの集散地となり、越中における商業の中心地として繁栄を極めました。 なかでも山町は、商都高岡の繁栄を支えてきた商人町です。
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